resignation as a beginning

 

それを諦めと呼べるのかどうかは知らないけれど、

僕は、何かと諦めがちな人間です。

 

この話をすれば(決して多くの人にはしないのだけれど)、

なんて哀しい人間なんだ、もっと前向きに生きていけばいいのに、

もっと期待して生きていてもいいのではないか、

という趣旨のことを言われたりします。

 

でも、僕は自分のことを哀しい人間だとは思っていないし、

ちょっと後ろ向きだけど、決して前向きじゃないわけではないし、

ごくまれに誰かや何かに期待しているときもあります。

ただ、その根底に諦観があるという、それだけの話です。

 

僕にとって諦観とは、セイフティ・ネットであり、命綱です。

もちろんそれらなしで綱渡りをしてもいいと思うし、

断崖絶壁をよじ登るのだってありだと思います。

それで目的地までたどり着けたらカッコいいしね。

 

でも、多くの人は途中で落ちる。途中で事故る。

自分の握力だけじゃ、その身を支えられなくなる瞬間が訪れる。

そうしたときに、僕は重力のままに自由落下したくないのです。

だって、命がいくつあっても足りないから。

 

僕は目の前で何人もの人たちが、崖から落ちていくのを見ました。

この世界は、僕たちの想像をはるかに超える絶望と痛みでできているから、

まあそれはそれで仕方がないなあとも思うのだけど、

それはそれは無残に、木端微塵に砕け散っていくの、みんな。

 

そして、セイフティ・ネットなしで山頂にたどり着いた人たちは言う、

「命綱なんかつけなくてもここまで登ってこれるよ」と。

強烈な生存バイアス。彼らに悪気がないことは分かっているけど、

それでも、その手を掴んで絶望の淵に引きずり落としたくなる。

 

 

だから、別に諦めて生きてくのだって悪くないでしょ、って思う。

諦めて、投げやりになって、「オレの人生こんなもん」って思って、

そうしてそこから「まあ頑張ってみるか」って思えばいい。

 

「どうせ幸せになれないなら、多少勉強ができたってバチは当たらないかな」とか

「どうせ誰にも愛されないなら、誰かを愛せる人生をおくろう」とか、

そんなんでいいじゃん、それだけでいいじゃん、って思います。

 

何もかも諦めてる僕たちには、ダメージが限りなく少ないのです。

もちろん一瞬ヒヤッとするけど、ロープがクッと体に食い込んで、

そうしてちょっと体制を立て直したらまたロック・クライムを再開できる。

「まあ人生こんなもんか」って思いながらね。

 

そうして、息を切らして登った崖の間隙から、

一輪の淡い色の花が顔をのぞかせているのを見つけた刹那。

山頂だけを気にしていたらきっと見つけられなかっただろうその花に、

小さな小さな歓びを僕らは見出すことができる。

 

諦めているからこそ思えるんです。

「人生捨てたもんじゃなかった」って。

 

 

さあ、大きく息を吸って、そして吐いて。

ゆっくりと、しっかりと、ロープを体に巻き付けよう。

何を盗られても、裏切られても、笑っていられるように。

この世界の絶望と対峙する勇気をその胸に携えて。

 

諦めることから、世界ははじまる。