disparity
個人的には、生きている以上、
人間である以上、
そして人間が社会的動物である以上、
格差は厳然と存在すると思っていて。
とりあえずここからの話は、
格差とは本質的に人間に内在するものであるよ、
その是非によらず、ね。
と、最初に断っておくよ。
基本的に人間社会はこの「格差」という表現に対して、
多かれ少なかれ否定的な印象を抱いてきたのだと思う。
だから、大きくそれに対するアプローチは2つあって、
1つはそれを隠蔽することで、
もう1つはそれを正当化すること。
ちょっぴり具体的に話すね。
格差の隠蔽というのは、所謂宗教だったり思想だったり、がメイン。
一部のキリスト教世界では(大きい言葉を使っていますゴメン)
神の御前に人は平等であり、誰もがパラダイスへの切符を持つと説く。
則ち、現世での厳然たる格差も、元来平等だった人間に対し神が与えたモノであり、
霊的な世界では人類は平等であるし、そっちの方がだいじ。
だから現世では立場に関わらず隣人を愛しましょうね、
祈り続ければ次の世界で幸せに暮らせますよ、という立場。
格差の正当化というのは、インドのカースト制度などが好例かな。
詳細は知らないのだけど、おそらくここにも宗教的なものが絡んでいて、
ひとは生まれながらに貴賤があって、でもそれは絶対神が与えたモノだから、
致し方ないですよね、それぞれ頑張りましょうよ、っていうスタンス。
すなわち、厳然たる格差は本質的に仕方ないことだし(正当化)
それにガタガタ言っても無駄でしょ、受け入れて、っていう立場。
いずれにしても、外的な要素(絶対神、人間が与り知らぬ何か)に依拠している点は、
共通しているんじゃないかな~と思うわけ。
で、現代社会はそれを否定するところから入っているわけですよ。
そして歴史上初めて(知らんけど)3つ目のアプローチに突入した。
それは、格差の隠蔽でも正当化でもなく「是正」
すなわち、格差を無くしていきましょう!イエイ!っていう立場。
出身階級や性別に関わらず、雇用の機会は平等に与えましょう、とか。
人種によって給料変えちゃだめよ、とか。
そういうカンジで、今まで格差が生じていた高低をそれぞれグルーピングして、
頑張ってその間を縮めてこうよっていう作戦に出たわけです。
ところが、依然として格差は無くならないでしょう?
お金持ちもいれば貧乏な人もいるし、
豊かな生活を送る人もいれば、明日の食事に困窮する人もいる。
もっと突っ込んだ言い方をすると、
真っ当に生きていける人と、生きていけない人がいる。
もちろん、未だに目に見えない形で生まれや性別によって差別されることはあるし、
それについてはまた別の回で考察しようと思うのだけど、
たとえ究極的にそういう要素を排除することができたとしても、
格差は厳然と存在し続けると思う。
だって、ヒトは生まれながらに全員違っているんだもの。
それは、わかりやすい能力、だけではなくて、
嗜好やモノの見方、考え方、性格とかも含めて、全て。
その結果、どんなに努力しても格差は生じ続ける。
そしてそうした格差に対して「それは格差ではないよ」というし、
「自己責任だ」ともいう。
結局格差を是正するという第3のアプローチの果てには、
「隠蔽」と「正当化」という旧来の方法に戻るという帰結しかない。
でね、だったら個人的にはね、
最初っから外部に絶対的装置を拵えて、
人間の思考の範疇を凌駕するどこかに責任を置いてあげた方が、
生きていくのがすごく楽なんじゃないかなって、思ったりする。
だって、自分が頑張ってるのに報われないのを
誰かのせいにできるじゃんね。