遠い日の記憶 Part 2

 

 瑛子ちゃんは僕の通っていた中学校で一番頭が良かった人だ。小学校の時はそうでもなかった(らしい)のだけど、中学1年生頃からメキメキと頭角を現し、塾の模擬試験では度々全九州1位なんてのをとったりしてた(らしい)。てか、最後の方は瑛子ちゃんがずっと1位だったとか。修学旅行以外で田舎から出たことないのに、英語はネイティブみたいに綺麗な音で話せるし、どんな複雑な立体図形の問題だってスルスルと解いてしまう。おまけに、スタイルが抜群に良くて、顔はそんなに可愛いわけじゃないのに(とか言ってたら怒られそうだけど)、野郎どもの間ではいつも噂の的だった。もっとも、結局3年間誰とも付き合わなかったのだけど、彼女。

 僕は、瑛子ちゃんとあんまり話したこともなかったのだけど、何となくお互いに意識?か認識はしていたのだと思う。先述の通り、英語のスクリプトを丸暗記していたが故に僕も英語の成績はかなり良かった方だし、授業でペアワークする時、たまに瑛子ちゃんと組んでたりもしたから。それでも、僕は宮島くんとかその取り巻きとか、時々井上くんとかの相手をするので忙しかったから、中学2年生の時は一緒のクラスだったけど、ゆっくり話したことなんてほぼなかったと思う。

 少し違う話なのだけど、僕は中学2年生の時に初めて彼女ができて、彼女はスミカというのだけど、僕はまあとにかくこのスミカが好きで、大好きだったんですわ。ところが12月の初めに、すごくひどいフラれ方をしまして。今考えればヤバそうなサインはいっぱいあったのだけど、僕はそれに勘づくには、そしてそこから体制を立て直すにはあまりに若くて、それで、呆気なく終わってしまった。自分でも信じられないくらい落ち込んで、夜も眠れなくなって、ご飯も食べられなくなって、体重も5kg弱落ちてゲッソリしてた。ちなみに僕はその後の人生で失恋して一度もそんな状況に立たされたことがないので、やっぱり僕にとってスミカは特別だったのだと思う。それで、流石の宮島くんも心配したのか、僕をいじめるのをやめて、代わりにタバコやお酒をくれたりした。タバコは吸って5秒で頭がクラクラしてダメで、酒は一口でひどく酔ってしまったから、全然役に立たなかったのだけど。

 で、このまま、死ぬんじゃないかってくらい、希望がない状態だった時に、放課後、もう家に帰る元気もないってくらい疲れ果てて、机に突っ伏してた時に、突然話しかけてきてくれたのが、瑛子ちゃんだった。

 「新木くん、」

 僕がのっそりと顔を上げると、瑛子ちゃんは、ゆっくりと、ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、僕に言った、

 「女は逃げるし、男は浮気をする。お金は使えばなくなるし、名誉もいずれ失墜する。」

 僕は重たい頭で、瑛子ちゃんの言った言葉を反芻する。少し間をおいて、彼女はこう言い添えた。

 「でもね、勉強して身につけたことは、誰にも盗られないし、絶対になくならないと思うよ。私は。」

 再び、2人の間を刹那の沈黙が支配する。沈黙を破ったのは彼女。

 「新木くんは頭がいいから。勉強すればいい。勉強して勉強して、色んな知識を身につければいい。そうすれば、誰が新木くんを騙そうと、裏切ろうと、離れようと、きっとずっと楽になる。優しくなれる。だって、絶対に他人にとられないものを手に入れているんだから」

 そこまで、瑛子ちゃんは一息で、諭すように僕に話しかけて、そのまま、いつもの凛々しい足取りで教室を去っていった。

 僕は気づいたら、泣いていた。

 

***

 

 それから、僕は瑛子ちゃんの助言通り、一生懸命勉強するようになった。得意な英語や国語だけじゃなくて、苦手な数学や、歴史もきちんと勉強して、瑛子ちゃんと同じ、県でトップの進学校に進んだ。結局高校を卒業する頃には、僕と瑛子ちゃんはその高校で双璧をなすライバルになっていた。

 そして、彼女の言う通り、僕は勉強してだいぶ楽になった。それからの人生でも、色んな人が僕のもとを離れ、裏切り、騙し、色んな事があった。だけど、その都度その都度、それなりに悲しくはなるのだけど、それでも、僕はその悲しみに名前を付けることができる。その悲しみに、沢山の先人たちがどのように立ち向かってきたのかも知っている。勉強したから。だから、僕は、それでもしんどいけど、瑛子ちゃんの言う通り、楽になった。

 「なんのために勉強するのか」という問に対して、世の中には沢山の答があるけれど、僕の中では瑛子ちゃんの言ってくれた答が一番しっくりくる。「勉強して身につけたことは、誰にも盗られないし、絶対になくならないから。」中学2年生、まだ14歳だった少女は、大人にだってなかなかわからない、深遠な真実を僕に教えてくれた。

 そして、僕は今日も勉強する。