You don't have to be afraid of wording,

 

人間は、抽象化という営みから逃れられないということは、

繰り返し論じている(つもり)なのだけれども、

最近さらにその思考が暴走してしまって、

何か言葉を発するたびに、それは抽象化なのではないかと、

ビクビクしてしまっている自分がいる。

 

手垢のついた議論ではあるのだけれども、

夥しい連続的な世界に対して、

限られた不連続な言葉をあてはめて、

僕らはコミュニケーションをしているわけで、

言葉と世界を1対1対応させることは原理的に不可能。

 

例えば、今日の空が青かったとして、

「昨日の空も青かった」と言ったとして、

言葉の上では今日の空と昨日の空の色が同一だという話になるのだけれど、

「青」という言葉の指示する範疇に2つの色が存在していただけで会って、

本当に2つの空の色が一致していたかどうかはわからない。

 

にもかかわらず、空の色を「青」と表してしまった段階で、

僕らは無意識のうちに2つの異なる色を同質のものとみなしてしまう。

それって、抽象化以外のナニモノでもないのではないか?

 

この話って他にも色々なものに当てはめることができるのだけど、

何か事象が存在している時に、それに言葉を与えている時点で、

もうそれは抽象化になってしまうと思う。

 

もちろん、ありとあらゆる言葉を組み合わせることによって、

限りなく1対1対応の言葉を生み出すことは可能なのかもしれないけれど、

それでも、そこに厳然と存在する事実に肉薄することは、

少なくとも現時点では原理的に不可能なのではないか?と思う。

 

そんな話をすると、最早口から音声を発することさえ憚られるようになって、

困ったなあ、と思っているのだけれども、

不必要に言語化することを恐れる必要もないのかなあ、とも思う。

 

結局のところ、ヒトは抽象化という営みから逃れられないわけで、

だとしたら無理に抽象化から逃れようと苦しむよりも、

ある種諦めて、その拘束の中で事実に肉薄する手段を模索する方が、

よっぽど生産的なのではないかな、と思うから。

 

言葉を信頼しすぎてはダメかもしれないけど、

いつも、ほんの少しの不信感と諦めを胸に秘めて、

言葉を発し続けていけば、それでいいんじゃないかなあ。

僕らは人間なのだもの。